香港でN.ディニを読み、日本でペルー料理を食べる:移動、労働と移住につて

香港でN.ディニを読み、日本でペルー料理を食べる:移動、労働と移住につて
ブリギータ・イザベラ (KUNCI Cultural Studies Center)

1プロローグ
移住者のすがたは私たちの現代社会の循環系を通り考えや物を輸送する血管の一つです。現代社会は液体として特徴付けられますが、その液体の中で、資本の流れ、人々の流れや溢れかえる製品が、たくさんの道を通り行き、私たちの現代社会の鼓動を保っています。その道筋は、終わりのない経済的、政治的な混乱によって突き動かされ、その早さは電気通信や輸送技術の発達により、加速しました。この行く来の中にいる人々は、ビジネスマンや伝道者、観光客、移住労働者、世界的なポップスターや、学生です。近年におけるこの移住の様式は国家内での動きだけではなくなっています。パパスタギアディス(2010)によると、国際化と移住はスペースの生産を変換した対の過程だとしています。移住者たちが超えるのは国境だけではなく、私たちの生活領域にも及んでいます。実際に、今ではもうすべての人が移住者です。日常の私たちの生活様式は村から都市へ、仕事から仕事へ、居住地から他へ、ウェブブラウザーのウィンドーから、スマートフォンへと移動することよって、構成され、影響を受けています。しかしながら、日常のこうした移住は私たちの世界を国境のない世界にしてくれる訳ではありません。反対に、パパスタギアディスが書き記しているように、「この世界的動向が広く広まっている一方で、国境の強化はより、緊張感を増しています。」
どの国家も多国籍企業からのチャンスを最大にしようとしているのにそういった経済変化が刺激する移住の形に対してはドアを閉ざしています。

移住労働者はネオリベラルグローバリゼーション時代の移住の流れにおいて、支配的な形態の一つです。彼らの移住は経済的、政治的、司法上、領土に関する立場から排除された事が理由になっています。彼らはまた全世界的に移住が増えている過程において、最も弱い立場の存在です。ここで展開される論文は、インドネシアの移住労働者の状況を学ぶ為に過ごした、香港のパラサイトと日本のディスロケイトにおける2つのレジデンスプログラムの間に行ったフィールドリサーチもとにして書かれています。移住労働者の二つの異なった文脈を経験した事を踏まえ、この論文は香港と日本における、インドネシア移住労働者の様子のゆるやかな比較と、そしてジグムント・バウマンによって導かれた観光学、とニコス・パパスタギアディスからの空間美学を通して理論的枠組みを求めています。

これらの理論的手段を持ち出す目的は、文化的、哲学的な枠組みから移住労働者の問題にアプローチするためです。すでに、国際的な政治、経済との関係から移住労働者を研究した科学調査は十分にあります。これらの文献はネオリベラルの資本主義の搾取の様式を説明する事において有効です。しかしながら、それらは富裕層と貧困層、都市と地方、北と南といった全体的な区別により移住を表す二進法において移住労働を社会的に仕分けようとするきらいがあります。これらの説明は移住労働者の政策を向上する事を通して社会的な変化を思考してはいるものの、第一に、この説明の限界は社会的な区別やゲストとホスト、家族と他者、家と外、そして地方と国際社会の間の社会的な区別や非生産的な境界線を生み出す傾向にあります。第二に、こういった文献は移住労働者を経済決定論や国家権力により動きをコントロールされて力のない貧しい人々として定義している為、移住労働者の機関を過小評価しているのです。この論文においては、置き換えられた主観の微妙な動きよりも、境界線を超えた動きとしての移住労働者の意味を拡大しようと試みます。日本と香港の移住労働者の社会的動向の様子を反映させ、移動という行為を通して移住労働者がもたらした文化の超領土化が社会変化をもたらす力だということを考察しています。

2旅行者と放浪者—労働移住の一過性
インドネシア人の労働力輸出は、1970年代後期から始まりました。1970年代のインドネシアでは解放経済政策と1967年からのASEANを通じ、東南アジアの新しい工業国ネットワークへの参加を主張しました。ASEANは貿易の自由化と輸出主導型の成長戦略を受け入れました。そして周辺国との関係の中で重要な課題の一つが移住労働の問題でした。1980年の半ばにおいて、「アジアの虎」(シンガポール、韓国そして台湾)の急激な経済成長とそれらの国々の出生率の低下によってアジアの発展途上国のなかで移住労働の必要性が出てきました。1997年から1998年においてアジアに起った経済危機の後、インドネシアとフィリピンは東南アジアにおける最大の労働輸出国になりました。この難局は両国において労働移住の女性化に影響を与えました。

2015年におけるインドネシア政府の統計値によるとマレーシアが最大のインドネシア移住労働の受け入れ先であり、続いて、台湾、サウジアラビア、シンガポールそして香港、日本は15番目です。香港におけるインドネシア人の移住労働者の合計はおよそ15万人、そのうちの90パーセントの人々は家事労働者として働く女性で、インンドネシアはフィリピンに次ぐ2番目に大きな移住労働者のグループです。一方で、日本における移住労働者の数は、およそ1500人と比較的少なく、大多数の移住労働者は中国、ブラジル、フィリピン、から来た人々です。70パーセントのインドネシア移住労働者は男性で、彼らは、製造業、建築業、農業、漁業の分野で働いています。

きっと移住労働者はスーツケースとともに夢を抱いて出国するでしょう。しかしたいてい、それは実現せず、彼らの夢は涙にとって代わられます。インドネシアの移住労働者は彼らの旅の始まりから非常にもろく傷つきやすいものなのです。求人の段階から、多くの人は、ブローカーたちによって、給料や条件について騙され、求人応募を受け入れてもらう為に、法外なお金を払わなくてはならない人もいます。
この不正の多くは労働条件について不透明であることや、出国の前に彼らの権利ついての情報が十分に与えてられていない事に関係しています。ここ数年を通して、調査によると、特に、マレーシアやサウジアラビアから、移住家事労働者はしばしばひどい搾取を受けており、それは身体的、精神的そして、性的虐待を含んでいます。もっとも有名なケースの一つとしては、香港ではたらくインドネシア人移住家事労働者、エリウィアナ・スリスチャニンシで、彼女は虐待を、彼女の雇用者から受けました。エリウィアナ が受けたひどく暴力的な虐待の詳細は報道期間のどこでも知る事ができます。エリウィアナは勇気がありこの件を法廷に持ち込むことが出来たため特別なケースです。彼女の世界的に注目を集め、タイムズ紙の2014年における最も影響力のある100人の一人として選ばれました。私はこの論文の後半で後の香港におけるインドネシア移住労働者の間で起った社会的ムーブメントの様子について詳しく述べようと思います。
日本においては、インドネシア人の労働者が直面しなければならない暴力の程度はインドネシア人の移住家事労働者の間での虐待に比べればそんなにひどいものではないでしょう。しかしながら、日本において労働者が直面しなければならない労働条件は他の国々と比べても飛び抜けて評判が悪く、彼らの話というのは公共の場において見えにくい部分があります。ほとんどのインドネシアの移住労働者は1993年に調印された技能実習制度と呼ばれる政府間で取り交わされたプログラムによって来ています。民間の人材派遣会社もまた「実習生」を輸出するのに役目をおっています。このプログラムが実習制度と呼ばれているのは、この制度が技術的知識を日本人からインドネシア人に3年間の間に伝える為の場として考えられているからです。しかしながら、彼らが働いている現場において技術が求められる(あるいは与えられる)事はなく、このように、技能実習制度は基本的に安い労働力を輸入する偽りの制度です。移住労働者を実習生として定義づけることによって、政府は雇い主が日本の労働法に定められた労働者の権利(給料の基準、保険、休暇)を与える責任を組織的に放棄しているのです。

茨城県の内陸で、私は食肉処理場で働いている20代男性でインドネシア人の実習生のグループに会いました。彼らは、雇い主から与えられた職場近くの宿泊施設をシェアして住んでいます。そこは、とても辺ぴな場所で、彼らの家から、最寄りの電車の駅まで一時間かかり、食料雑貨店まで自転車で30分かかります。その周辺には野菜農場で働いているインドネシアの実習生がいて何人かは女性です。製造工場では就業スケジュールがある一方で、農場で働いている実習生は決まった就業スケジュールがありません。実習生のひとりが私に、毎日日本のいろいろな農場に移動しなければならず、鳥をつかまえ食肉処理するためにその鳥を茨城に送ると話してくれました。この食肉処理場のすべての実習生は毎週一日の休みがある事は知っていますが、その休みは毎日の鳥の供給量によるので固定されていません。さらに言うと、低賃金の為、彼らはもっと稼ぐために出来る限り超過労働をしたいと考えています。私は、インドネシア実習生が直面する苦しい条件の様々なレベルについて話すことが出来ますが、幸運にもこの問題について何人かの社会学者がすでに注目しています。

日本の労働法は住居において非常に厳しく作られており、技能実習生制度の元では、契約上の合意は三年以内に限られており、その人々が日本に戻ってくる事は出来ません。労働力の必要性が大きいことから、特に2020年日本で開かれるオリンンピックの為に、建設業の労働者が必要になってくることに関係して、契約を5年にのばすプランがあります。移住労働者の為のこの一時的な労働契約規則の特徴は日本の労働様式の変化に対応しています。日本の伝統的な終身雇用制度は家族資本主義から来ていますが、その多くは変化してきており、40%の日本の労働力は今やパートタイムや非正規労働者です。非正規労働者の使用の増加は今や1999年の半ばから直面している不景気からの脱却の為に取られている必要不可欠な手段であると考えられています。より柔軟に労働市場が整えられている事で、企業はボーナスや社会保障制度、健康保険などのコストを減らす事が出来ます。しかしながら、その分の社会的、経済的なコストを負うのは労働者です。仕事上の保証が少ない事の他に、派遣社員は基本的に正社員と同じ量の仕事をこなしているにも関わらず、正社員の半分以下の給料しかもらえないのです。

それにも関わらず、日本の若者は上の世代が終身雇用のもとでは享受できなかったワークバランスを取る為に一時雇用の形態に注目しています。働く事への献身度が緩む事は現代社会の一つの特徴で、ジグムント・バウマンは「ツーリスト シンドローム」と呼んでいます。ツーリストシンドロームは一時性、不安定、日常の出来事に属していない感情という旅行者のある種の経験の様子を表します。労働市場の自由により仕事から仕事へと安定せずに動くことはまさにバウマンが議論するツーリストシンドロームに当ります。安定して仕事に専念する事がない事は現代の大量消費生活のスタイルの一部です。資本主義産業は私たちに、流行のファッション、目新しい雑貨、ポップミュージックそしてテレビ番組などを追う為に素早く流通され、消費される商品において現れる一時的な喜びの感覚を与えています。これはバウマンが「放牧行動」と定義づけているツーリストシンドロームの特徴です。彼らがただ一カ所に短い間とどまっているということからすると、旅行者は、未経験の体験や感動を求めている。つまり、「喜びの感動を消費する以外に何も目的がない、そして満足感がいったんおさまってしまうとしなびて色あせてしまう純粋な意味」(バウマン2008:208)を求めているのです。一生旅行者でいることは、今自分がしている事の長期間の結果について心配する事なく実体のない瞬間を次から次へと生きるという事です。
旅行者の姿の陰の側面は、バウマンが言うところの放浪者、もしくは私たちのケースにおいては、派遣労働者や移住労働者、もしくはどこ、いつ移動するかを決める事が出来ない実習生たちです。放浪者たちはいつもある場所に必要とされる限りで、彼らがそこにいたいだけいる訳ではないようにいつも不安定な状況のなかで生活しています。短い契約期間の間に労働力を最大限活用するために彼らの時間やエネルギーは搾取されています。彼らの期間が「終わった」、またはそれ以上使えない、もしくはあまりに手がかかると見なされたときには、他の安い労働力を探すまでです。このような一時的な職場との繋がりで、労働者と雇い主の間に詳細な契約の規則に対する主導権はありません。なぜ、契約期間がただみじかいというだけでその人はより良い仕事の条件の為に苦労しなくてはならないのでしょうか。なぜ旅行者のような存在だけなのに、ある場所では政治的な条件について批判しなくてはならないのでしょうか。人の入れ替わりが激しいため、日本には一つのインドネシア人の労働組合や強力なコミュニティーがありません。彼らがお互いに知り合ったり、意味深い関係(彼らの同僚や、日本人とでも)を築く前に彼らは既に国に帰らなければなりません。言語の違いは移住労働者の人々と日本人の間のコミュニケーションの壁にもなっています。日本での移住労働の経験はただ単に仕事、仕事、仕事だけです。おそらく、これはまさに日本の保守派の人々が望む、「彼らを受け入れるけれども、距離は保つ」といった事なのでしょう。

3.移住労働を通じての空間の創造

日本で働くインドネシア出身の移住労働者による、共同体の発展を妨げるもう一つの観点は、インドネシアの移住労働者たちが日本各地の郊外に分散していることです。過重労働と交通費の高さが定期的な交流を阻んでいます。移住が生活のための共有空間を生み出すことは実際の文化的な出会いのために重要な課題です。しかしながら、権力者が空間を提供するやり方は、そのような出会いに影響を及ぼします。バウマンは、世界は基本的に二つに分かれていると述べています。それは「観光客が丁寧に案内されるところと、見ることを妨げられている場所のことです。私たちの都市の空間は観光業のロジックによって構築されているのです。記念碑、公園、そして全ての美しい店が都市の中心に位置付けられています。工場や農場は郊外に位置し、交通の便は限定されています。後者はインドネシアからの移住者が労働へ送り出されるような場所です。かれらは日常生活を持続させるために不可欠な存在であるにもかかわらず、そこで可視化されていません。
香港の都市環境は、反対に、移住労働者が確保するための生産的で共有可能で社会的な空間を提供します。最終的に日本と香港の領域のスケールは明確に異なっています。香港は「都市国」であり、そして国際的な交易のハブであり、様々な国籍を持った人たちが移住する場であり続けてきました。香港のインドネシア人移住労働者たちは、香港で最大のヴィクトリア・パークという公園を毎週日曜日にかれらの巨大なピクニック広場に変えたことで広く知られています。平日には園内のバスケット・コートとテニスコートが香港の地元住民に利用されていて、観光客も、インドネシアの移住労働者たちとともに思い思いに過ごしています。インドネシアの移住労働者たちも休日を楽しむ、あるいは遊びや昼食のために学校帰り公園に立ち寄る雇い主の子供を迎えるため、待機しているのです。人種による空間の分断は香港では未だにはっきりしています。インドネシアの移住労働者は休日ヴィクトリア・パークに自分たちの場所を作りますが、フィリピン出身者の場合、通常セントラル駅周辺に集まるのです。ヴィクトリア・パーク周辺では、インドネシアの品物を扱っている店やレストランがたくさんあり、広告も多くがインドネシアの言葉で表記されています。この場所は小さなインドネシア村になっているのです。

フィリピンからの移住労働者の「領域」周辺でも、似たような状況がはっきりみてとれます。そうした場所では店、レストラン、カラオケバーがフィリピンの方をターゲットにしているのです。しかし、香港における空間の分断はそれでも異文化交流の機会を与えています。香港の中心部の通りに立っているだけで、異なる言語が行き交う音が聞こえるのです。多くの観光客や住民がインドネシアやフィリピンのレストランを訪れますし、香港の現地のアイデンティティーという考えは、一つの場所に多様な文化がある体験をすることで、もっと流動的になります。このことによって、すべての空間の秩序は、常に人種や階級、ジェンダーによる社会的な分断を通じて構築されていきます。しかしながら、「空間は変化に富む力そのものであり同時にその内部で起こる相互作用によって変化する領域であるのです。」(パパスタギアディス,2000)移住労働者が自らの視野を広げていく力が、香港のアイデンティティーを変化させる無数の空間を生み出してきました。

社会・政治的な風潮と、共有可能な社会的空間を持続的に生み出してきたことが、香港において、インドネシア出身の移住労働者の間の様々なアイデンティティーに関する試みを可能にしました。この観点から、アイデンティティーは常にある起源の場所に根ざしているのではなく、むしろ空間の配置を構成し、また空間の配置によって構成される造形的なプロセスなのです。(パパスタギアディス,2000)一方で家事労働者の日常生活においては、多くの女性たちが香港の中心地からは切り離され、周縁化されています。週末になると彼女たちがヴィクトリア・パークで自分たちの存在と共有するアイデンティティーを主張しているのを目にすることができます。ヴィクトリア・パークでは多くの女性が労働する時の格好とは異なる服を着ています。ヴェールを身につけていようと、スカートを穿いていようと、多くの人が自分のアイデンティティーをある程度主張することができると感じているのです。パブリックスペースに集まることは、自分たちの存在と連帯を叫ぶ手段の一つとなっています。ヴィクトリア・パークではインドネシアの移住労働者が皆で座ってピクニックをし、多様な考えに基づいた小さなグループが作られています。例えば同じ出身地の方、宗教や性的嗜好、趣味が重なる人どうしで、あるいはたまたまインドネシアの同じ仲介業者で知り合った人たちが集まっています。

私が注目した一つの活動は、公園内に複数ある移動式図書館の存在です。こうした図書館は、読書や書くことに熱心な移住労働者の個人またはグループによって始められたものでした。本を収納するためのスーツケースの使用は、労働者が最初にこの都市へ赴いた際の、移動という行為を強く意識させるものです。インドネシアから香港への本の移動は、移住労働者のアイデンティティーの移動と重なります。本の移動は、読者の空間的、社会的、経済的、そして政治的な文脈に根ざした様々な解釈により一つの領域をもたらすものです。この場合は特に、本を読み、書くという行為を通して、移住労働者がインテリ層とそうではない人たちの階級の境を横断しています。インドネシアの小さな村出身の女性にとって、本に触れることは難しいことなのです。ほとんどのインドネシア移住労働者は高卒です。香港で働くことによって、そのような女性たちが、経済的な自立を得、自分の関心を追うことができました。社会的または経済的な事情で自分の村に残っていれば実現できなかったようなことです。

香港では、インドネシアの女性が政治的組織に加わることができ、メタルバンドで演奏したり、ヴァイオリンを学んだり、地元の新聞の記者になる、あるいは大学でさらに教育を受けることもできます。しかし、このアイデンティティーの移動は、単なる一つのアイデンティティーから別のものへと移ることに限りません。労働の移動における社会的な動きは単純に前向きな方向ではなく、もっと複雑なものです。結果的に、パパスタギアディスが述べるように、常に転位によってアイデンティティーは形づくられるのです。(パパスタギアディス,2000)例えば、香港の移住家事労働者は、出身地の村に送金する起業家の女性かもしれません。つまり彼女のアイデンティティーは、雇用者と雇用主との間にあるものです。もう一つの重要な社会的動きは、家庭における男性と女性の間の地位の変化です。ほとんどの場合、移住家事労働者は家族を支える柱となり、時には夫よりも強い権限を持っています(これは香港在住の多くのインドネシア人移住労働者が正式な夫と離婚している事実を説明するものです)。

このことは、労働の移動における感情的な側面についての議論を喚起します。香港ではほとんどの移住労働者が家事業務を行っています。一方で、日本はインドネシアとフィリピンから看護師や介護士の招致を加速させています。日本人女性の就職を奨励し、国内の高齢者人口の割合の高さに対応するためです。また日本政府は、複数の特別な経済特区で働く家事労働者への門戸を開こうととしています。さらには、1980年代のバブル期以来、東南アジアの女性たちが結婚に伴い日本へ移住した現象は、外国の結婚仲介業者にとって有益な(リスクのある)ビジネスをもたらしました。様々な種類の感情労働が、実際には、家庭的な空間から始まる、異文化どうしの理解を生み出す可能性を孕んでいるのです。香港では、食べ物を模範例として、家庭的な空間から相互交流が生まれます。家事労働者が自分たちの料理の腕と「地元」の味を雇用主の食卓で披露するのです。時にはそれが雇用主と非雇用者の間に調和をもたらしますが、もちろん対立も起こります。料理をすることを通じて、家事労働者たちは、文化の違いを翻訳しています。そしてその翻訳行為は、「常に翻訳不可能なものの抵抗との出会いでもある」のです。(パパスタギアディス,2000:139)翻訳不可能なものは、衝突の原因となりえますが、それでいて衝突は文化の領域を解放するための生産的な行為にもなりうるのです。翻訳の概念は、文化がある場所に根付いた一つのアイデンティティーではなく、むしろ進行中の一つの過程であることを考えさせます。文化の差異の領域は、複数のアイデンティティーを生み出す場所として捉えられるべきであり、差異の間にある緊張は、より一層の交流を推進するエネルギーを生む可能性があるのです。

茨城県では、日本人の夫と離婚したインドネシア出身の女性が経営するインドネシア・カフェがあります。私がそこにいた時、本当に美味しいビーフシチューをいただきました。インドネシア料理の豊富なスパイスを欲していた私を解放してくれたのです。このカフェにはテンペ(大豆のケーキ)やサンバル(チリソース)など、インドネシア料理の材料を販売する小さな店があります。インドネシア出身の移住労働者がよくここへきて、食事やおしゃべりをしていますが、経営者の女性によれば、日本のお客さんもたまに食べに来るのだそうです。私が日本にあるインドネシア・カフェの存在を強調するのは、移住労働者のために民族に基づくコミュニティ発展の必要性を訴えるためではありません。そうではなく、さらなる文化的交流を生み出す空間の生産を主張しているのです。それは例えば、ステレオタイプを解消することができる空間です。移住労働の規制改善を求めるための困難は、しばしば経済的問題に集中しがちです。しかし、経済的な決定論を超えて、物質的な条件を考えることも重要なのです。文化の交流を生むための場所を作り出すことは、労働法を改善する動きと一致しているべきでしょう。そうでなければ、権力によって整備されてきたのと同じ社会的な分断を再生産するだけです。文化的な困難という課題には、他者と空間を共有していることを、人々に自覚させるという目的があります。他者、とは、言い換えれば自分の日常生活に置ける政治的・経済的な情勢に同等に貢献してきた移住労働者のことです。パパスタギアディス(2000: 146)はまた、このことをよく言い当てています。「どんな文化も、孤立または排除を通じてしか己を維持できない。あるいは最低でも長くはもたない」と。

4.香港でNh.Diniを読み、日本でペルー料理を食べる

Nh.Dini(1936年)は20代なかばに客室乗務員として働いたインドネシアの小説家です。その後神戸でフランス領事と結婚し、その間、夫を追うようにプノンペン、フランス、マニラ、そしてデトロイトを旅しました。Diniの多くの著作は、彼女の実際の旅行体験からインスパイアされたもので、懐かしむ気持ち、疎外感、そして文化の違いなどが反映されています。KUNCIカルチュラルスタディーズセンター、パラサイトギャラリー、そしてインドネシア出身の移住労働者であり作家である方々のグループAfterwork Reading Clubによって運営されたプロジェクトとの関連で述べるならば、「創造の基盤を与える衝動」と題されたDiniの物語はクラブで取り上げた最初の題材でした。エッセイの中でDiniは小説家としての創造のプロセスを読者に伝えています。「主婦になった時は楽ではありませんでした。時間は限られています。幸運なことに、夫が一度に一ヶ月間、たまにはもっと長い休みをくれました。だからその間、友人の静かな家に行って、書きかけの部分を直したりできたのです。」Diniの文章は、クラブの参加者にとって、どうしたら作家の仕事に専念できるかという葛藤や、書く作業を通じて自分の考えをまとめるために時間をどう確保するかについて議論する最初の(そして転換となる)機会となりました。移住家事労働者の作家にとって、読書と書くことは時間の制約との戦いです。雇用主の家に住んでいるので、家事労働者は基本的に24時間勤務です。Afterwork Reading Club参加者の一人であるArista Devi は短い詩を書きました。それは労働と休憩時間のやりくりという葛藤を巧みに表しています。

月曜の朝の嵐
嵐の報いから逃れられる休暇は、私たちにあるのだろうか
風と雨が
招待されていないのにやってくる間
もう宴は終わっていたけれど
(2015)

香港に住むインドネシア出身の移住労働者の作家から、私は空間を形作ることは、時間を意味のあるものにするための苦痛を伴うことを学びました。香港における社会運動の活気的な状況は、移住労働者が、自分たちのための時間と、より重要な他者との時間を獲得するための叫びから生まれていたのです。

日本滞在中最も忘れられないものとなった出来事の一つが、神奈川シティユニオンの代表者の方、村山敏氏が、私とディスロケイトのエマさんを、川崎にある事務所近くのペルー料理の店に連れて行ってくださったことです。神奈川シティユニオンは、特にペルー出身のラテン系アメリカ人移住労働者を対象とする小規模の組合です。ラテン系アメリカ人が日本の外国人労働者で最も多いグループです。神奈川シティユニオンの活動対象は最近韓国やフィリピンからの労働者にまで及んでいます。私が生まれて初めてのペルー料理を味わっている時、リーダーの方は政府や企業の責任を追及することで日本の外国人労働者の労働環境を改善しようと取り組んできたユニオンの長い苦闘の物語を語ってくれました。リーダーが日本料理ではなく、ペルー料理のランチにお誘いしてくださったことに、私は嬉しくなりました。後で知ったことですが、ペルーの料理は、インカにもともと住んでいた人々の影響と、ヨーロッパ・アジア・西アフリカからの移民の影響が融合してできたものだったのです。日本のペルー料理の存在も、きっと味と香りが訳され、それらが重なりあうことで成り立っているのでしょう。日本で味わったペルー料理は、移住によって生み出された文化の脱領域化を証明するものです。

ミーティングの最後に、リーダーは私たちを毎月一回、ユニオンが企画している定例の全日集会に誘ってくれました。私が「移動集会」と考えるこの集会では、ユニオンのメンバーが、急な解雇や給与減額、労働に関連する保険の提供を拒否するなど、無責任な行為が告発された様々なブラック企業を訪ねるものです。2015年12月に私が参加した集会では、15人程度のグループから成っていました。ユニオンのスタッフ数名(そのうち何人かは流暢なスペイン語が話せる)と、ラテンアメリカやフィリピン出身の移住労働者が何人かいらっしゃいました。集会参加者は朝9時に川崎駅に集合し、その日巡回予定の企業へ小さなシャトルバスで向かいました。車に乗り切れない人は地下鉄を使いました。私たちは5つのブラック企業を訪ねました。その中には川崎市内の小さな診療所、JR、「タイセイ」コーポレーションがありました。ユニオンが移住労働者から受け取った報告に基づいて、巡回先は組まれました。

はじめ訪れたのは、川崎の静かな住宅街にある診療所でした。短い滞在時間中、皆さんは神奈川シティユニオンの曲と、インターナショナルを日本語とスペイン語の両方で歌い、集会をスタートさせました。各地点で大体20〜30分止まっていました。日本で外国語が聞こえる事は少ないので、スペイン語のインターナショナルが、東京の綺麗な空に響き渡るのを耳にするのはとても珍しい体験でした。携帯用スピーカーから流れる大きな声に反応している人はあまり多くありませんでした。住民の何人かが一瞬家から出てくるのですが、何事もなかったようにドアを閉めていくのです。診療所のマネージャーだけが心配そうにしていましたが、日本の労働法ではすべての人が労働問題に関わる意見を主張する自由を規定しているため、集会を止めることはできません。たまたま周辺に居合わせた巡回中の警察官二人は、「通常の」生活がこのように混乱することに対して戸惑い、態勢が整っていないようでした。

東京都内のJR本部前に到着したとき、状況は少し変わりました。会社側はすでに集会を「迎える」準備が済んでいるか、むしろ準備が整いすぎている状態でした。会社の正面玄関を10名ほどの警護が固めていたのです。建物の正面には、JRは当社の名を挙げて訴える声とは一切関係がないと書かれた文字盤がありました。JR本部前の通りは通行人で埋まっていましたが、何が起こっているのか気にしたり、集会の参加者が配っているチラチに目をくれる人は多くありませんでした。しかしながらこの移動集会が意味のない行動だと考えるのは不適切です。社会の運動を、私たちは異なる規模で活発な行為を持続的に行う動きとして捉えるべきです。草の根レベルの社会運動は、ドゥールーズ的な意味では、「単に物事を理解するためのプロセスではなく、むしろ永久に変化し続ける環境」(Coleman in Parr,2010: 235)なのです。社会環境の変化は複雑な出会いと「中心の存在」に加わるための、様々な方法を合わせた無数の試みによって追求されます。

集会が、私が見ていた限りでは、公共の注目の的でなかったのは事実です。しかし、神奈川シティユニオンの移動集会において注目すべきは、彼らの驚くべき継続力です。移住労働者に叫びのための「舞台」を提供し、彼らを様々な規定の空間の中へ送るのです。それぞれ短い時間に、参加者はスピーカーから声を発する機会を与えられます。不得意な日本語でも、母国語でも、移住労働者は自分の叫びと存在を公共空間の中で発し、主張しているのです。移動集会は、
結束した空間的社会的な場を、移住労働者の不服従の態度を取り入れることで混乱させる、パフォーマンス的介入として受け止められる可能性もあります。

その日の集会の最終地点は、タイセイという会社でした。ここでは福島の除染作業のために移住労働者を多く雇っていますが、彼らへの健康保険の提供を拒否しています。グループは会社のロビーに入ることに成功し、上品な雰囲気の受付場所に小さなカオスを引き起こしました。ピカピカに磨かれた会社のロビーにインターナショナルを歌いながら15人のグループが入ってくるのを想像してみてください。警備員が止めるように言いますが、彼らはそれを拒否して歌い続けました。参加者の一人はスピーカーを通して叫び、会社の顔に向かって堂々とその堕落を暴露しました。短い間ではあっても、役員を苛立たせるのはとても清々しい気分でした。会社の事務所に押しかけて「満足」した後、集会の参加者は近くの安い中華料理店に入って昼食をとりました。そこで私たちは日々のことについて楽しく話をしました。集会は真剣なものですが、集団的な幸福の実践でもあります。ユニオンの行動には、知恵、勇気、怒り、頑固さ、焦り、そして快活さが混ざり合っています。企業や政府が集会の後直ちに方針を変えることはないかもしれません。しかし集会それ自体は楽しめるピクニックであって、周縁におかれた人々を団結させ、ある集産主義に発展しました。勝利をつかむことよりも持続することが重要です。

移住労働者の移住を促すのは好機や夢です。彼らがただ労働者としてやってきたことを理由に、企業や政府が促す社会の体制によって、移住労働者の社会的な機動力が妨げられてはなりません。労働力の移動の過程は、金銭的なやりとりの問題だけではありません。パパスタギアディスが指摘するように、移住は場所の移動だけでなく、別の選択を想像するためにこの社会的動きを実現する力とも関連しているのです。(2000: 146)労働力の移動は、社会の変革における一つの活発な動きとみなされるべきです。移住労働者は、国家が組織する社会のまとまりを再構成し、文化の差異によって構築された新しい社会を生み出す潜在能力を持った、いわば文化的主体なのです。